昭和45年02月08日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
天地金乃神は昔からある神。ですから天地のしんにかようというか、天地の心にかなうというか、いわば日月の心とか、いわゆる天地日月の心と言う様な心、そういう例えば心の状態とか在り方にならせ頂いておれば金光大神を抜きにしても、おかげを受けられることが分かります。昔からある神ですから、昔からそういう意味でおかげを受けてきた人はあります。但しそれはねお徳と言う様な事には一寸遠いようですねえ。
例えて申しますと、皆さんも御承知でしょうが、イワンの馬鹿というのがありますねえ。いわゆる、どんなに馬鹿にされても、ひとっつもそこにさわらないという心ですねえ。もうどんなに踏んだり蹴ったりされても、それをひとっつも怒らないどころか、さわらない。求められれば、ああそうかと言うてすぐ与える。例えば、そう言う様な生き方の人が、随分今迄にはあってきた。それは勿論、物語ですけどもねえ。例えば日本の物語の中にもありますね。
花咲爺さん的なというのが、犬を殺されても、又は臼を割られても、それに腹を立てるといったような事ではない。そういう例えば、本当に物語を地でいくような生き方をした人がやっぱありまよね。その為にはやはり本当に枯れ木に花が咲くようなおかげを受けてきておる。なる程、天地金乃神は昔からある神ぞ、と言う事が分かりますね。トルストイのイワンの馬鹿でもやっぱそうです。いわば天地日月の心をです、持っておった人の物語。花咲爺さんの場合でも同じ事ね。
なる程天地日月の心をもっとフルに発揮しなければ、そのような事は出来ません。だから、そういう類似した生き方をした人は、随分あるんです。やはり昔から、そしてやはり、そういう生き方が一番素晴らしい、おかげの実績というものを、残しておる人はたくさんあるのですね。なる程そういう心の状態になればね、いわゆる天地にかなうのですよ。天地のしんに通ずるのです。
ですから今日は、そういう意味で昔からある神と言う事の事実を、そのような事から分かってもらいたい。一番最後に、「信心はせんでも、おかげはやってある」と、言うなら、神様とも言わなかったし、天地金乃神とも言わなかった、金光大神のお取次も頂かなかったけれども、やはりおかげはやってある訳です。ここで申します、「おかげはやってある」と、いうのはふつうここでは、信心がなくても天地の親神様の、天地の御恩恵を受けないで済むと言う事は出来ません。
そういう意味で、おかげはまんべんなく世界中の氏子におかげはやってある、という意味によくここはお話ししましたが、今日はそういう意味じゃないですね。今日はなる程、天地のしんにかよう天地の心にかなう生き方。いうならば、天地日月の心と言った様な心をね、それに精進した人。そういう人はやはりおかげを受けてきておる。なる程おかげはやってある昔からだ。なる程天地金乃神は昔からある神ぞと言う事が分かります。そこをはっきり、天地金乃神のおかげをね。
受けられると言う事は、天地金乃神のお徳を身に受ける事の信心をですね、表して下さったのは、教祖生神金光大神ね。その事をはっきり打ち出して、いわゆる天地金乃神御自身もですね、神様御自身も「金光大神あって神が世に出た」とこう仰る。今迄は天地金乃神様のおかげやら何やら知らなかった訳ですね。おかげは受けてきても、只天地のしんにかなう生き方になったり、思い方になったりするから、おかげを受けてきた。
けれども金光大神御出現によってです、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。そして神も助かるようになった、氏子も立ち行くようになった。金光大神のおかげで神が世に出たとまで言うておられるような事が出来るようになったのは、金光大神御出現によってからの事なんですね。そこでです、その天地金乃神のおかげを受けていく為の、天地金乃神様のおかげを受ける為に、神様の心が分かる。いわゆる教えをして下さる。御理解を聞かして下さる。
その御理解によってです、天地につながるいわば様々な生き方。いわゆる天地金乃神様のおかげを受けられる様々な生き方を教祖は、様々な角度からまた教えておられる訳であります。それをまあ分かりやすく言うと、お礼によって神様にかよう、お詫びによって神様にかよう、願いによって神様にかようとそのような事になる訳ですね。願いによって神様とかよう。そこでです、その神様にかようと言う事に於いては、やはり同じですね。おかげと言う事においては同じ事。
けれども、こういう生き方のほうがましじゃというその生き方がありますね。願ってもおかげが受けられる。お詫びをする事に気付いて、お詫びをする事によってもおかげが受けられる。お礼を申し上げる事によってもおかげが受けられる。そこでどう言う事になるかと言う事を、少し具体的に聞いて頂きたいと思います。先日から寒修行を終わりますに当たって、甘木の平田さんのお話を終日頂いて、大変おかげを頂きました。正にあの通りでございます。
けれどもこれはねどこ迄もね、やはりあの願いと言う事がに立っておる感じですねえ。大体は、甘木の信心は御礼と、こう言われております。ですから実際は、御礼のしるしにあのような積極的な御信心が出来ておられるとも言えます。けれども、その甘木の初代はそうであり、平田さんはそうなのでしょうけれども、平田さんのお話を頂いておりますとですね、これは願いに一番近いのです。
言うなら一に神様、二に公の事、三に私し私的なこというふうに自分の信心の姿勢と言うか生き方、在り方というのを決めておられます。誰が何と言うても、神様の事があった時には、絶対これを先に取る。やむをえん場合には、まず公の事から取る。私的なわたくしてきな事は、もう一番最後だとしておられますね。ですからあなた方も、そう言う事にならなければならない、というふうに聞こえる訳ですよね。
そげな事じゃでけん。只お願い、お願いち言うて参って来てから、神様にお願いだけなら、馬鹿でもちょいでもするじゃないかと。ちゃんとここの信心が分かって、神様の事第一に御用でもどんどんさせてもらうと言う様に出来て、おかげを頂くというのでなからにゃいかん。雁首すげ替えにゃ、と言う様なひどい言葉になってくる訳です。私はこの頃驚きました。丁度あの朝のお話が済んでから、応接間に私が後から参りました。秋永先生とお話しておられる。
それから皆んな挨拶に出て来るように、総代さん、それから部長級の方達が挨拶に出て来るように言ってましたから、総代さん達皆んなは帰っておられましたけど、部長級の人達が五、六人で入ってきました。応接間に入ってから頭を下げた途端、「あんただん、いっちょ雁首すげ替えにゃ」ちこれが一番口でしたよ。もうひどい事を言われるなあと、思いましたけれど。しかしあれは平田さんじゃない。神様のですね。
神様の御言葉として頂くならば、そこに並んでおる部長級の人達は、ぜんぶ雁首すげ替えにゃならん人ばっかりなんですね、皆んな。今の菊栄会の大体の方達が中心でしたけど。今の菊栄会の方達は、本当に雁首すげ替えにゃならん人ばっかりですけど、神様の声として頂きゃですね、なる程その通りなのです。一にも神様、二にも神様と、これは私の生き方はそうです。だから言うと、平田さんよりもっと極端ですね、私は。一にも神様二にも神様、三にも神様とゆうのですから。
平田さんは、一に神様、二に公、三に私とこう言われる。ですから一にも神様、二にも神様、と言う様な在り方ではなくて、もう私が中心になっておる信心ばっかりなんですよ。今の菊栄会の方達の中心の人達の大体の信心がね。だから忙しけりゃ御無礼しますと。こうだったら、もう神様にお詫びをしてからと言った様な、まあ生き方なんです。まあその程度ですけれどもです。
ですから平田さんの言われる事が、本当に神様の言葉とすりゃ、本当に雁首すえ替えにゃならんと発奮すれば、それは又おかげですけども、言われたからというて、平田さんがあげん言いなさったけん、そうしようと言うような信心では、これはいけません。それは、けががありましょう。雁首すげ替えよってから、すえ替えられん事になってしまうかもしれません。ですからもう言われたけんする。真似じゃいかん事が分かります。ですから、例えばそんなら、平田さんが教えて下さる事を少しずつでも。
そんならそういう極端な事じゃなくても、少しずつはそれに見習い神習いしていかなければなりませんがですね、けれども私共がそこん所を頂きますと、どうしても矢張り願いになって参ります。おかげを受けなければならんから、一にも神様おかげを受けねばならんから、二にも神様。いわゆる四神様が仰る様に、「神の用をたせば氏子の用は神がたしてやる」と仰るから、そう言う事になってくるです。神の用をたせば、氏子の用は神がたしてやる。いわゆる条件と言った様なものが出てくるんです。
けれども願う心が切でありますから、願う心が切でありますから、本気で御用でもさせてもらおうと言う事になる訳です。ですから願っておかげを頂こうという、それにつながるという、それが一番濃厚。そればっかりという訳にはいいません。但し平田さん当たりの場合はです、あの積極的な御信心がどこ迄も、甘木の初代の御信心を頂いてからの事ですから、お礼のしるしにそういう事になっておられるとゆう事になれば、まあなっておられると、こう私は思いますね。
けれども自分がそういう積極的な、信心をしておられるのを皆んなに、伝えられる時にはです、おかげを頂きたいなら、雁首すげ替えにゃと言う事になってくる訳です。一にも神様、二にも神様でいけと言った様な事になってくるんです。自分を中心じゃつまらん。神様を中心にせにゃ、やむをえん時は公の事を二番目にしろ、二番目の事は一番最後でいいとゆう訳なんです。信心しよりゃ百姓してでも、信心しよらん者が一反に十俵取れるなら、信心しよる者は八俵しか取れんはずだと。
それだけ信心の方に打ち込むから肥料も手入れも、やはり他所よりも遅れるから。けれども十年経ってみれ、そこにはね五俵十俵の事じゃない、おかげになっておると言った様な、いわゆるそういうひっぽうなんです、そういう生き方なんです。だから算盤とってみると、その生き方の方がいい訳なんですね。平田さんの生き方の方がいい訳です。けど中々それが出来ませんのですけども、それはどこ迄もいわゆる神の用をたせば氏子の用は神がたしてやる事を。
算盤に於いてのそれであっては、それがどうしても強くなるね。昨日御理解にも頂きましたように、萩焼きの例話が出ておりましたですねえ。ですから私、昨日は久冨さんに言うてから内に全部萩焼きに皆んな茶碗を替えてもらった。大体月に一遍づつ全部こう入れ替えますからもう全部、お番茶茶碗から玉露茶碗に至る迄、全部一通り、昨日替わりました。そう言う様な事でございましたから、そして私があちらへ下がってお茶を頂く。若先生もおりましたから、若先生に私は話をしよりました。
私がね例えば、朝からこちらへ下がらなきゃならん時にはね、もう下がらなければならない事があるから、下がりよるとばい。はあ一服したいけん、親先生が下がってござるというふうにどん見どんしなさんな。そのかわりその後先を見ていきよれと。甘木の初代はね、御晩年の頃は、もう天地と一緒におられるなあ、という感じだったそうですね。平田さんのお話を頂きますと、「もう御容体が悪くなってくると、天気が曇る。お天気がようなると、病の状態がずうっとお天気になってくる、と言う様に。
もう本当に天地とつながってござるなあと、思わにゃおられませんでした」と、言うておられます。けれども私は、若先生にね、「平田さんは、そう言うておられたが、私の場合はね晩年といわず、現在ででもですね、うちの親先生は天地につながってござるなあ、とゆうものを、あんた達が感じなければいけないよ。又私自身がそれを感じて、有り難いなあとゆう和賀心になっておるんだ」と。
例えば「私が朝から昼迄必ず座らなきゃならんのだけれども、けれどもたまたま私が勝手の方へ下がらして頂いておるのは、私が自分の感情とか、自分がお茶飲みたいけん下がっとるとじゃない。天地とのつながりがあるからこそ、私が下がる。だから下がっておんなさなければ出来なかった事がいつの場合でもあろうが」と。そこんところを、若先生、私と久冨さんと三人でお茶を頂きながら、その話を一生懸命お話ししとります所へ、光昭が「新しい方が、二、三人お参りになっておられる」とこう言う。
ほら来た(笑)ていう訳なんです。でなからなければ。もう本当に私がこたつの間におらなければ出来ない二時間余り、お話させて頂いたんですけれどもね、もう出来ない、ここではとてもそこまでは届かないような、難儀な問題でお参りして来てあったんです。だから、ほうら繁雄さん、ここでしょうがとこういう訳なんです。まあついでながらお話ししますとね、私しはその御主人がもう十五日迄しかもてん、と医者が言う。胸の病気で。ところがその二十も違う御主人と。
自分はまあだこの、長崎の大変な大きなお店の、お嬢さんだそうですけども、二十も違う人と、まだ二十一才の時ですよ、それがね、どうでもこうでもと。だからうちを、勘当されるようにして、こちらの方へ嫁にきとられる方なんですよ。その間いろんな、問題もあったでしょうけども、そのおじいさんが、だから六十五からですから、まだ四十五位ですよね、綺麗な奥さんです。私がみえた途端に頂いた事は、この位の〆太鼓とゆうのがありますよね。
太鼓を千鳥掛けに締め太鼓とかけてあって、締め上げて宴会なんかの時に使います太鼓、〆太鼓を頂きますから、随分締め上げられておる人だなあと思うたら、お届けされる事が、そうなんです。だから医者が十五日迄しかもてんから、ここでひとつ神様仏様にでも縋っておかげ頂きたいと言うのかと思うたら、そうじゃなかった。ですそれを連れて来た人が言う事に。「私はね、おやじに二千万円生命保険をかたっとるけん、いつ死んだちゃよかばってん、あなたは主人には一銭も掛けちゃおるめえがの」と。
「そればってん、あげな風じゃいかんけん、はよ死んでもろうたほうがよか」ことば、お願いせんならんちゅうごたる事だった。(笑)それが、何故そげんかと言うとですね、もう、やっぱ二十歳(はたち)も違うし、長年胸の病気で寝とられるもんですから、もうそれこそ、もうりん気の激しい事が、もうそれこそ自分の命を断ったほうがよかちゅうごとあるちゅう訳です。だから、それをお導きして来た方が知っとうもんですけん、はよ死ぬごとお願いしたほうがよかばのちゅうたる(笑)
本人は言われませんけど、【 】そして、お願いはその他の事だった訳なんです。世の中には本当に難儀な事があると思いますねえ。もう私はゆっくり本当にいろんな事情のところをずっと聞かせて頂きましたが、ほんなこてやっぱ自分の命を断ったほうがよかごとあろのち、私は思いました。しかしまあ帰りがけには、もう大変おかげ頂いてですねえ、帰られました。あのねあなたがね、過去何十年間の事を、ずうっと思うて教えを、これから頂きなさるとね、あれもご無礼であったろう。
これもお粗末であったろうと言うて、お詫びをする姿勢になればね、これからあなたがやろうとなさっておられる事は、何をしてもおかげになると言う事です。大きな仕事をしておられるんですよ、その女の方は。それでも主人は、そんな状態だしもうそこんとこ、仕事をしなければ、病院のお金はどんどんいるし、もうどうにも。けれどもここに二千万円ばっかりの金を出してやろうという人が有るから、仕事をしたい、けれども今のような状態では出来ない、と言った様な問題も中には有ったんですけれども。
それはもうあなたが、その気にさえなんなさればなると言うてですね、私がお話しました事は、丁度その〆太鼓の太鼓が締め上げられて、まちっと締め上げられるなら、はち切れるごたる状態、もう本当に自分が死んだがましという状態まで、締め上げられちゃる訳です。ですから過去のね、過去のお粗末ご無礼、まあ仏教で言うならば、それを罰と〔でも〕言いましょうかね。罰が当たる。だから、過去の事をね、本当に私が何十年間してきた、それが、前にまだ奥さんがおられましてね、実際は。
そして奥さんが大体胸の病気だったんですよね。だからそれに入り込んできてある方なんです。ですからもう聞けば聞く程、なる程お詫びもせんならん事が沢山有る訳なんです。それでいわゆる前の奥さんの恨みが自分にきておるだろう、と言う事なんです。でもそこん所を詫びるとその罰がね、罰が却っておかげになると、詫びる気になりゃいわゆるこれに罰が当たるから、良い音色が出てくるというのです。もうその話を私が一時間余りさせて頂きましたら、もうそれこそもう本当に涙をながして喜ばれました。
その事で苦しみ抜いておる私が、むしろその事によって、おかげが受けられる。それが金光様の御信心なんですよね。「この神様はね、もう過去に於いて、こう言う事をしとるから、そこに罰かぶらせるというのではなくて、そこに気が付いて、詫びれば許してやりたいのが親心じゃと、仰るからね」と言うたらもう涙がポロポロ。詫びれば許してもらえるんだとゆう訳なんです。そしてその姿勢になりゃ、これからの事業は何をしてもよかとゆう事なんです。
光明が見えだした訳なんですね。お話を頂いておられるうちに、いわゆるばちを受けなければならないような、そのばちがかえって、締め上げられるしこ、締め上げられておる太鼓が、良い音色を出してくるようなおかげを、これから受けられるぞという御理解でした。そこんところで皆さん、今日私が言うお礼とか、お詫びとか願い。お詫びをしなければおられない、そのものに気付かせて頂いて、心から詫びる姿勢が出来てくる時です。その過去に犯した罪お。
粗末ご無礼と言う様なものが、それがかえって、むしろおかげの元になる訳なんです。詫びれば許してやりたいのが親心なんです。そう言う様な、お話をしよるところへ、繁雄おっちゃま「電話が掛かってきました」とこう言う。私はそういう時に思うんですよ。合楽でおかげ頂きよる時に、うちから電話掛けてきたり、どうしたりこれはもう私の生き方なんですよ。それこそ一にも神様、二にも神様、三にも神様という生き方ですからねえ。俺がね、俺が合楽におかげを頂いておる時に。
どげなこつがあったちゃ電話掛けちゃ出来ん。俺が「おう」ち、言うてすぐ帰ってばしくるか。相談せんならん事が有るなら、相談せんでもおかげ頂ける事なんだ。俺が合楽で御用頂いとるとじゃから、と言う様な位の事は家内に言うとかじゃこて、というのが私の信心です。だからこれはちーた平田さんより、もちっと強烈かもしれませんね、本当言うたら。けど私の信心はそれですから皆さんもやっぱり知っておって頂かなきゃいけませんね。例えば合楽で御用頂よる時に、お参りさせて頂いとる時に。
早う帰って来て下さいとか、うちの事ども相談てんなんてそれは相談せんでおかげ頂けるんだと、電話掛けてきたからというて、俺は帰らせんのやから、これから掛けてどんくるなと、私は繁雄さんに言いたかった、私の信心から言うなら。けども電話が掛かってきた。でも、やっぱりこの頃、平田さんのお話やら頂いておられるもんですから、掛かってきたばってん、すぐさままあだこの人達お客さんが帰らさならんけん、自分がお茶しよんなさるけん、まあだ私の足も揉んじゃなかですもん。
それけんまあ、それからその人達をしばらくして送り出して、それから昨日は足じゃなかった(笑)頭じゃった。頭が痛かったから、頭を押さえてもらった。それから頭を大体一通り終わってから、電話がこげなふうですけん、帰ってもいいでしょうかと。実は私は今日、朝そこん行かにゃん事じゃった。もう帰ろうと思うてからですね、ここで御祈念しござった。ところが、急にこの胸が痛みだした。それを昨日話しておられました。丁度胸の病気なら、こげんあろうかちゅうごたる胸の痛みじゃった。
それから改めてお届けさせて頂いたら、「今日は、萩焼きのお知らせを頂いたからね、お茶碗も全部萩やきと替えなさい」と、言うたもんですから、丁度茂雄さんも残られなならんごとなって、一時頃迄残んなった訳なんです。うちから電話が掛かってきとる訳。茂雄さんとしても、「今日は、朝のうちにどこどこに、どうでも行かなければならん」と、言うてお届けがしてあったんです。ですからねまあ私の御用を終ってから帰られまして、夕べ総代会にみえてからお届けされますのにですね。
「先生、おかげ頂きましてからね、私が行かなけばならんと思う人がね、あちらに丁度みえたそうです。」神様の御用さえしとりゃ、神様が具合ようして下さるというのが、やっぱそれなんです。ですから本当は茂雄さんに、「あんたが、ここに来とる時は、家から電話どん掛けちゃできん、ち言うとかんの」と、言いたいのですけれど、まあそれは私の信心ですからね。それは私の極端な信心ですから、それは言えませんけれども、皆さんが大体は、その位な覚悟を持って信心をなさらなければいけません。
俺が、合楽で御用頂きよる時には、電話を掛けてきてはいけんぞと、もうそん時には、電話掛けてこんで俺に相談せんでも、ちゃんとお前の在り方で、おかげ頂けるんだと、又、事実ですから、そこんところのようなところもです、段々稽古なされなければいけませんね。そこでです、私は皆さんのいわゆるお詫びで、お詫びと言う事によってです、只「すんまっせん、すんまっせん」ばかりじゃ、いかんとですよ。本当にお詫びしなければおられない自分という者をそこに見極めて、お詫びをする姿勢になればです、そういうお粗末ご無礼がかえって、おかげの頂けれる元になる。
願いいわゆる「神の用をたしゃ氏子の用は神がしてやる」と、仰る平田さんの一面ですね、言うならば。それと繁雄さんの例をもってその事は、願いに通じておるんだと。神の用をすると言う事は。けれどもね、ここで思わなければならない事はですよ、お詫びと言う事は、自分という者が、お粗末ご無礼をしてきてから、すんませんというのがお詫びになっとうでしょう。そうすると、そんなら願いとい有事はです、お願いするからには、こんなご無理をお願いしとるから。
神様の言う事も聞かにゃなるまいと言うて、御用させてもらうのですから、それは何と言うても、まあ、あれがあがしこ一生懸命御用するから、あれだけ一生懸命修行するから、修行するから、神様が蓮根食うて下さるおかげなんですよどこ迄も。喜んで下さるというおかげとは違う訳なんです。そんならお詫びと言うてもそうでしょうが。過去に於いてのそういう、例えばそんなら、さっち、お詫びでおかげ頂かれんなら、ちっと神様が腹かきなさるごたる。
お粗末ご無礼をしようかと言う様な事であっちゃいけんでしょうが。ですからお詫びでも助かられるんだ。願いででも助かられるんだ。願うからには、神様からちっと蓮根食うてもらう位な御用させてもらわにゃいけんと言う事。お供えをする事も、お参りをする事も、教会の御用を一生懸命させて頂く事もです。「神の用をたせば、氏子の用は神がたしてやる」と仰るから、神の用をたしておるのですから、これはもう願いにつながっておる。そこでです。
この御理解七節から、いわゆる「天地日月の心になること肝要なり」と、こうゆう事なんです。ここになってくる時に、信心はね、一にも改まる事、二にも改まる事、信心は本心の玉を研くものだと。研く為には、まず垢を落とさなければならないという、いわゆる、改まるという事、研くとういう事がです、そこから生まれてくるところの和賀心。いわゆる、和賀心を追求する事の為にはね、研かなければ和賀心は生まれてこない。改まらなければ純粋な和賀心は生まれてこない。
和らぎ賀ぶ心、又は、天地にかよう心。言うならば、天地日月の心になる事なのである。与えて与えてやまん天の心、受けて受けて受けぬいていく大地の心、日月の心いわば陰陽の心、道理に合うた心、そういう例えば心に、焦点を置いてです、いわゆる和賀心を追求すると言う事はそれなんです。天地日月の心になる事によってしか生まれてこない、和賀心というのは。天地日月の心になること肝要なり、いわゆる私が言う和賀心時代を目指しての信心。和らぎ賀ぶ心。
いうなら、天地との交流する程しの心、それは天地と調和する心。だから天地日月の心になることに精進する事によって、天地と調和した心が生まれてくるのです。天地と調和する心。そこにです、本当にこのような中にも、このような神様のお働きが頂けると言う事が、有り難いなあと言う事になる。だから、賀(が)の心、いわゆる賀(よろこび)の心が生まれてくる訳です。そういう例えばね和賀心を求めての信心。これはどう言う事になりますか。
これは、神様が蓮根食うて下さる、神様が蓮根食うて下さって下さるおかげではないのです。もう、詫びたから、許してやらなこてと言うて下さるおかげじゃないのです。私共が、和賀心にならせて頂く。いわゆる、「おかげは和賀心にあり」と仰る。願わんでも頼まんでも、神様も喜んで、いわゆる限りなくおかげを下さる。これを「お徳」と、言う。限りなく、限りなく頂く心。だから詫びとか願いとかいう心で、お徳が頂けん事はないだろうけれども、私は大変難しいと思う。
けれどもね、和賀心によって頂くおかげというのはです、いわゆる限りがない。限りがないと言う事は、お徳とゆう事なんですね。ですからどうでもです、決して平田さんのおっしゃるような難しい真似をしなくてもです、私が言う難しい真似をしなくても、真似ではいけん。ただしそうしなければおられないというものが生まれて来た時にはですね、私は、そうなさらなければいけん。又、その姿勢、その精進をなさらなければいけない。おかげを頂いておる。
そのお礼の心がです、一にも神様、二にも神様と言った様な状態になってくるのなら素晴らしい、これは平田さん当たりの例がそれなんです。そんなら、自分とゆう者を振り返って見てです。自分は、お詫びせんでもよかと言った様な人間が実際あろうはずはないのだ。だから自分という者を、信心とは見極める事だと、言われる位ですから、自分という者を教えに従うて見極める時です、あれもお粗末これもご無礼と、お詫びをしなければおられない、お詫びに徹しなければおられない、という自分を発見する。
ですから詫びもどうでも、俺はせんでもええという人は有る筈がない。そんなら願わんでもよいと言う事はね、もうお願いはひとっつもせん、私がそうだからと言うて、お願いはいっちょんしよらんかと言うと、もう本当にお願いに明け暮れておる訳なんです、実を言うたらね。だからやはり神様から、少しは蓮根食うて貰わなきゃおかげにならんから、こちらも神様の心に、神様が求めてござる様なものをですね、やっぱこちらが蓮根食うた信心させて貰うて、蓮根食うて貰うてのおかげも受けなければならない。
詫びてから、許してもろうてから、おかげを受けなければならない。これがやっぱりなからなきゃ出来んけれども、それの最大最高のものはです、何と言うても和賀心なんです。いわゆる御礼(おんれい)の心なんです。和らぎ賀ぶ心なんです。いわゆる「天地日月の心になること肝要なり」と、ここに教えておられるのはそれなんです。天地日月の心になる事に精進させてもろうてです、いよいよ和賀心を目指しての信心。それに頂けれるおかげ。これが一番間違いのないおかげなのですね。
御用すれば助かる。一にも神様、二にも神様で、どんどんお供えすりゃ、どんどんおかげが頂けれるね。それも事実。けれども、それよりもです、和賀心をもって頂いたおかげの方が本当だと言う事なんです。だからどうでも私が言う「和賀心時代」ね。まず教団の中から、そういう例えば、その御用しなければ助からんとか、言う様な意味に於いての金光様の御信心がです、和賀心にならなければ助からんと言う様な事が正面に出てくるような信心に私は切り替えられなければ、本当ではないと思うのです。
それでいてもです、和賀心を目指していく。又そこから生まれてくるおかげを頂いてもです。それでも生身を持っておる人間の事ですから、痒ければ痒い、痛ければ痛い、で願わなければおられないのだと。そして自分という者を振り返ってみる時にです、あれもお粗末、これもご無礼とお詫びしなければならない事はたくさんあると言う事。けれども、やはり何と言うても、和賀心を目指しての信心。その和賀心に頂けれるおかげを目指ざす信心にならなければならない。
合楽の場合、もう絶対それです。だからよその人が言うておる事はですね、もうそれは本当の参考でしかなりません。平田さんも、それを言うておられます。秋永先生に言われたそうです。「私がこうやって、お話をしたけれども、何と言うても、あんたんとこの親先生の信心を頂いて、私の言う事はどこ迄も参考だ」と、言われたそうですが。やはりこれは参考にしかならない。
どこでどういう素晴らしい話を聞いても、それは合楽の信心の和賀心をいよいよ追求していく為の参考にしかならない。それでも、おかげを受けなければならんから、御用も一生懸命させてもらう稽古もしなければならん。又は自分という者を本気で見極めて、詫びなければならないところは、詫びていくおかげを頂かねばならんと言う事であって、実際は、和賀心が一番先に立たなければならないと言う事。
いわば天地日月の心になる事が、何と言っても一番肝要だ、という事をですね、今日は分かって頂きたい。平田さんのお話から、ああいう生き方を、私共がそのまま真似る事はです、それは神様に蓮根食うて欲しいという、信心にしか過ぎません。けれどもそれがいけないというのじゃない。やっぱり蓮根食うてもらってからでも、おかげ頂ねばならん事がたくさんあるからね。
どうぞ。